【週報巻頭言】2022年7月24日 弱さを癒やす主(マタイ4章18~25節)
イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。(マタイ4章23節)
マタイによる福音書4章23節から、イエスさまのお働きについて、三つのことが分かります。一つは「教え」です。そして、二つ目が「宣べ伝え」ということです。三つ目が「癒やし」です。ある人はこのことについて、教えというのは、キリストを信じる者への教育、宣べ伝えというのは、主を知らない人たちへの福音の伝道、そして、癒やしというのは、病や苦しみにある人たちの心身の治療であり、牧会のことであると言っています。
この中で、「患いをいやされた」ということが書かれていましたが、このことについて考えてみたいと思います。多くの翻訳聖書では、「患い」と訳されている言葉、「弱さ」と訳すことのできる言葉であるそうです。古い翻訳聖書ですが、永井直治という人はこの「患い」という言葉を「かよわき」と訳しています。すると、この「患いをいやされた」というところが、「かよわきを癒やされた」、あるいは「弱さを癒やされた」となります。弱さを癒やすとは、どういうことでしょうか?
私たちの弱さを癒やすイエスさま。弱さというと、体の弱さとか心の弱さとかいろいろなことを考えることができます。ヨハネによる福音書5章にベトザタの池の病の人の話があります(ヨハネ5章1~9節)。イエスさまは38年もの間、病に苦しんでいた人にこう言われました。「良くなりたいのか」(ヨハネ5章6節)。すると、その人はこう答えました。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」(ヨハネ5章7節)。イエスさまの問いに対して、この人は、「はい、良くなりたいです!」とは答えていません。「誰も私を助けてくれなかった。どうせ、私はダメなんだ、私なんかいなくてもいいのだ・・・」。この人の心が弱り果てている様子が分かります。そういう彼に対して、主は「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(ヨハネ5章8節)と言われました。すると、この人は良くなった、という話です。
自分の弱さに留まり、そこから起き上がれないでいた人。しかし、主は「誰も私を・・・」というこの人に、いいえ、私はあなたを知っている。私はあなたを気にかけている。私はあなたと共にいる。この出会いにより、この人は自分の弱さから解放され、主を信頼し、新しく生きる者とされたのです。これが「弱さを癒やす」ということです。このようにイエスさまの福音宣教とは、人を起き上がらせるもの、新しく生きることを導くものなのです。
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